牧師 の書斎より その36『御心を求めるとき』
   
 

「神の御心に生きる」というのはキリスト者の永遠の課題ですが,それはどういうことなのか, それを実践しようとするときにどういうことが障害となるのか・・。 これは,取るに足りない私のような信仰者でも,長い間ずっと考えさせられてきた課題です。 今日は憚りながらこのことについての私の考え方を少し述べてみたいと思います。

神の御心に生きようとする場合,その人はやはり「御言葉の学び」と「祈りの実践」を土台にし ていくべきであると思います。 しかし,漠然とみことばを学び,祈りつつ生活をしてゆくだけでは,神の御心に生きるという道は見えにくいものです。
御言葉を学んでいくと,私たちは御心に生きる数々の基本形を知ることが出来ます。 (御心に生きる定石と言った方が適確かもしれませんが)どの道の達人も, この基本形を身に着けているという共通点がありますが,同じようにキリスト者も, 先ず神の御心に生きるためにその基本形をしっかりと心に刻み, それを己の血や肉にして体内に取り込んでおかなければなりません。これが基礎となります。

次に祈りですが,御心を知る祈りで大切なのは「聴く祈り」です。 自分の心の中にある思いをぶつけてゆくことも祈りです。 詩篇などによく出てくるいわば「魂の叫び」です。しかし,祈りがそれだけであったら御心は決して見えてきません。 詩篇の中にある激しい叫びの祈りも多くの場合,最終的にその詩人は「聴く祈り」に導かれています。 (例外もありますが)つまり,御心を知るための祈りとは,御前に静まって主の御声を聞いてゆく祈りなのです。

しかし,御心に生きてゆくというのは簡単なことではありません。 ここにはいつも大きな障害が立ちはだかることが常だからです。邪魔が入るのです。 邪魔というと,何か外部から来るように聞こえますが, 御心に生きるための邪魔は私たち自身の中からやってきます。神さまの細き御声を聞こうとしても, 内側から不要な雑音が入るのです。声の主は他でもない自分自身です。 その内容は,雑音といっても,自分の計画,自分の理想,自分の正義感や情愛, 自分の使命感など,自分では大事なことと思いやすいことばかりです。 このような雑音の中から主の御声を聞き取ってゆくのは,時には大変困難な作業となります。

聖書に出てくる信仰者だけでなく,皆さんも今までに数えきれないほど祈ってこられたことでしょう。 「このまま留まるべきか,いや尚前進すべきか,その反対にここは退くべきときか,右に行くべきか,あるいは左に行くべきときなのか・・」 しかし,私の牧会経験では,このように祈ってゆくときこそ,己から来る雑音と御声を聞き間違えてしまう危険性が増すときであると思います。

新会堂が完成し,目黒カベナント教会の新時代が到来するこの転換期, 自分の進退について常に祈り続けながら日々の奉仕にあたってゆかなければならない立場の私も, ここは「間違わないようにしなければ」と強く思わされているところです。

「主を求めて生きよ。」 アモス5:6
「御霊によって歩みなさい。そうすれば,決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」  ガラテヤ5:16


牧師:北澤正明