牧師 の書斎より その33『われ弱くとも』
   
 

「主我を愛す・・」と始まる讃美歌461番は,音楽的には実に単純な曲です。 音楽的魅力はゼロといっても言い過ぎではない,そんな曲です。しかし,私は この讃美歌が大好きです。この讃美歌に私は今までどれだけ励まされてきたこと でしょう。これは実に不思議な賛美歌です。オーバーに言えば「奇跡の讃美歌」 そんな風に思えてなりません。皆さんはどのように感じておられるのでしょう。  私はこの讃美歌は歌詞と曲がピッタと合っている典型的な曲。そう思います。 がしかしこの曲は,何とこの日本語歌詞のために作曲されたものではないのです。 アメリカ人のウォーナーという人の作詞なのです。つまり元々は英語の歌詞な のです。この英語の歌詞にブラッドベリーという人が曲をつけたのでした。 であるのに,なぜ日本語の歌詞がこれ程までにこの曲に合っているのでしょうか。 このことだけを考えても,この讃美歌が創られるにあたって主の特別なご介入 (祝福)があったことは間違いのないところであると私は思うのです。

ところで,この讃美歌の中で私が一番感動させられるのはこの日本語の歌詞, 特に,歌詞の一番の前半の所です。「主われを愛す。主は強ければ,われ弱く とも,恐れはあらじ」ここです。 私が主を愛しているというのではないのです。「先ず,主がこの弱い私を愛し てくださっている。」と歌われます。そして,次に「主は強ければ,われ弱く とも恐れはあらじ」と歌われるのです。ここが,すばらしいと思います。 この歌詞があるので多くの人たちが励まされるのだと思います。

世の多くの人は「自分が強くならなければ」と考えているようです。 しかし,私たちは人間以上になれるわけではありませんから,強くなると言って も,自分の命を一日でも延ばすこともできない弱い人間以上にはなれるはずも ありません。そうです。「強くなりたい」という願望は「弱いことはいけない」 という浅はかな人間の考えから来ていることなのです。 実は神さまは人間を弱く造られたのでした。そして,そこには摂理があるのです。 「弱いからこそ支え合おうとする」「弱いからこそ助け合おうとする」 「弱いからこそ補い合おうとする」「励まし合おう」とする。 これが神さまの摂理です。

この歌詞は神学的にも,非常に大事なことを教えています。「聖書に語られて いる信仰とは,己の心を強くし,神を信じる者になるということではないの です。」「聖書に語られている信仰とは,神さまから弱い私たちへの,只々恵み なのです。」ですから,私たちが如何に弱くとも恐れることは全くないのです。 神さまの愛の強さは驚くべき強さだからです。たとえ弱さのために私たちが 倒れそうになったとしても何も恐れることはありません。 神さまは最も弱い者の近くにおられる方だからです。

「私が弱いときにこそ,私は(私の内で主が)強いからです。」
                           Uコリント12:10


牧師:北澤正明