牧師 の書斎より その32『独り身ではない』
   
 

長女が結婚するとき,私はいわゆる「娘を嫁に出す父親」というのを経験する ことになりました。しかし私の場合,テレビドラマや映画によく出てくる様な, 「ああ娘をとられた!」などと口走る,そんな女々しい父親ではありませんで した。それどころか,結婚相手の青年がすばらしいキリスト者であったこと, また,私よりもはるかに男前であったこともあって,只々,感謝の気持ちで いっぱいでした。とはいえ,今,冷静になって振り返ってみると,一度だけ, その父親独特の複雑な気持ちにさせられたことがあったことを思い出します。

あれは確か,長女の結婚式の一ヶ月ほど前のことだったと思います。 あの時私は娘にこう言ったのでした。「洋服タンスあった方がいいんじゃないか。 買ってあげようか?そうだ,明日丁度時間があるから一緒に買いに行こうか?」 その時でした。いつもなら,「うん!」と嬉しそうな返事をするはずの娘が, 意外にもこう言ったのでした。「うん,後で強さんに聞いてみるね」 (強さんというのは娘の結婚相手の青年の名前でした。) 私が驚いたのは,今までなら自分のことを自分ひとりで決めて,直ぐにも返事を した娘が,この時は自分では決めずに,自分以外の人の考えを先ず聞いてから 返事をしようとしたことでした。これは,彼女が独り身の時にはまったくみられ なかったことでした。確かに,あの時私はショックを受けたのです。が,しかし 実は嬉しくもあったのでした。それは,娘が独り身ではなくなる前から,もう 独り身的発想をやめていたからでした。そして,「うん。なかなか賢いな。」 「これなら,大丈夫だな・・」そう私は思ったのでした。

ところでキリスト者の皆さん。皆さんはたとえ独身であっても独り身ではけして ないということを日頃,自覚されておられるでしょうか。残念なことに牧師を しておりますと,時々,若いキリスト者の中に,神さまに尋ね求めたふりをして, 結局は自分の思いによって進路を決めている人を見かけることがあります。 また,熟年者の中にも,時々ですが「私はあと何年生きたら死にます。」などと 言っている方や,「80歳までは礼拝に来ますが・・」などと発言されている方を お見受けいたします。これは正に独り身ならではの発想ではないでしょうか・・。 キリスト者の体の中には,主がおられる筈なのに,キリスト者は独り身ではない 筈なのに,これはおかしなことです。そういう方はご自分の主をまったく無視 しているのでしょうか・・。
キリスト者の一大特徴は「自分のことを,自分ではけして決めないことです。」 そしてこれはとても重要なことなのです。そうです。キリスト者は「生きるとか, 死ぬとか,やるとか,やめるとか」そうゆうことを,自分の思いで決めるという 独り身的発想を捨てた者たちなのです。キリスト者はみな二人身なのです。

幸いなことよ。主のさとしを守り,心を尽くして主を尋ね求める人々。
                           詩篇119:2


牧師:北澤正明