牧師 の書斎より その28『型や行いではなく』
   
 

プロテスタントの教会はその教会によっていろいろと特徴があります。また,各教会はその特徴を生かして歩んでいます。ところで私たちの教会は,バプテスト教会系でも,長老教会系(改革派)でも,きよめ派の教会でもありません。ではもし,誰かに,「目黒カベナント教会はどんな教会ですか」と聞かれた時,私たちはどのように答えたらよいのでしょうか・・。今月は,そのような質問に答えるために,この教会のルーツとその歴史的な流れについて少しお話してみたいと思います。

あのヨハン・セバスチャン・バッハが生まれる少し前(1670年代),ドイツのプロテスタント教会の中から敬虔主義運動が起こります。これは当時,教会が陥っていた行過ぎた形式主義への反省から発した敬虔なキリスト者の素朴な信仰運動でした。「形式を重んじそれを行っていることが,果たして主を愛し主にお仕えしていることなのだろうか,生き生きとした信仰と神に仕える実生活こそ大事なことなのではないだろうか・・」こういう敬虔な思いを持つ人たちが始めた運動でした。この運動は徐々に広がり,後に彼らはドイツ国教会から脱却して「福音自由教会」を形成してゆきます。 また,この運動はドイツに留まらず,ヨーロッパ全土に広がり,北欧スウェーデンでも多くの敬虔なキリスト者が自由教会を建て上げてゆきました。その後,新天地アメリカに渡った敬虔主義運動の中で育ったスウェーデンキリスト者たちは米国カベナント教会を建て上げてゆくのでした。言うまでもなく,目黒カベナント教会はこの米国カベナント教会から派遣された宣教師たちによってはじめられた教会です。

そういうわけで,私たちの教会を紹介するときには,「自由福音教会系の教会」或は「敬虔主義の流れにある教会」と説明するのがいいと思います。(日本では福音自由教会,聖約教団,同盟福音などの団体が同じ流れの教会です。)これらの教会には,聖書は神の誤りなきことば,形式は決定的に大事なことではない,というこの二つの考え方が流れています。
私はなぜか・・(これは正に主のなされたこととしか言いようのないことですが)
最初に訪ねた教会が敬虔主義に立つ宣教師の開拓教会でした。そして,信仰の初期に育ててもらった教会がドイツ福音自由教会,神学校が聖契神学校,そして,遣わされた教会がすべて自由福音教会系の教会でした。その軌跡だけをみるとまるで「敬虔主義の申し子のよう」です。(実際は全然敬虔な信仰者などではないのですが・・) しかし,こういう経歴を歩ませていただいた者として,その教会のその歴史のすばらしさを生かして牧会をしてゆかなければ,そんな風に思わされています。

ところで,外国から帰ってきたキリスト者たちが,「日本の教会は堅苦しい,何か窮屈な感じがする」と言っているのをよく聞くことがあります。 どういうことからそういう感じを受けるのでしょうか。 私は,昔のユダヤ人にも負けない日本人の生真面目さと,人間の形式主義にはまりやすいその弱さと,きよめられなければという焦りが合体してゆくときに,教会がそういう雰囲気を作りだしてしまうのではないかと思うのです。 「お祈りしますから,目をつぶって手を合わせてください。」「車の助手席には乗らないように注意しましょう!」「男女が話をするときは部屋のドアをあけておきましょう。」私はこのように,人に型や行いを促すようなことは致しません。それは,人が救われてゆく(人がきよめられてゆく)のは型や行いによるのではないからです。もし,誰かがそのような指導を受け,その人が指示通りにその行いをすることがあったとしても,それは,その人がきよいわけでもなく,きよめられつつあるわけでもないからです。それは人前で取り繕っているにほかならないからです。大事なのは一人一人のキリスト者が聖なる方に従ってゆく敬虔な従順な信仰を与えられてゆくことです。ですから私たちの教会はこの敬虔な従順な信仰が一人一人に与えられてゆくように祈る教会でありたいと思います。様々な教会の牧師の話を聞いていて,興味深いのは,型や行いを口うるさく言われている人ほど生活が乱れやすい傾向があるということです。そうです。本物のキリスト信仰は型や行いから入ろうとしてもだめなのです。

このように私たちの教会は敬虔主義の堅い聖書信仰に立つ教会です。であるからこそ,人間的な型重視の考え方を持たないように注意し,「人は型や行いによって救われるのではなく,人はただ福音によって,罪と死の世界から救われてゆく」このイエスさまの教えをしっかりと述べ伝えてゆかなければならないと思います。 しかし,私たちの教会は,こういう型を重視しない流れにある教会であるからこそ, しっかりと覚えておかなければならないことが一つあります。それは,形式や行いを軽視しすぎて,無形式主義に偏らないように注意するということです。敬虔主義運動の歴史を冷静に見てゆきますときに,いろいろと行過ぎたこともあったのです。そして,その行き過ぎた考え方は自由福音教会系の教会に今でも時々顔を出すことがあります。「伝統的な教会堂を建てるのはよくない,教会の鐘やステンドグラスなどはもってのほかだ。」「教会が育んできた伝統的な礼拝学などはまったく無視して皆が喜ぶような礼拝をする方がいい。」「オルガンなんか使うよりドラムの方が元気があっていい。」「教会戒規はいらないのではないか。」「旧約の戒めは教えなくていいのではないか。」「牧師の教団認定制度などなくてもいいのではないか。」このような意見が時々飛び出すのです。しかし,教会が長い歴史の中で培ってきた型には意味があることも忘れてはなりません。型の意味を理解しつつ,同時に形式主義者に陥らないようにしたいものです。

一般の学校教育のことを考えてみるとわかりやすいと思います。もし,中学生高校生の教育現場でこの無形式主義で生徒と向き合おうとした場合,問題は噴出するでありましょう。形式や行いを教える,これは教育には必要なことです。しかし,その生徒が真にきよい人生に踏み出すためには,福音によって救われなければなりません。ですから,福音的で優れたミッションスクールでは,生徒たちに行いや形式を教えること以上に,その生徒に福音を届けることに熱心です。行過ぎた無律法主義,無形式主義にならないように注意いたしましょう。

「人は律法の行いによっては義と認められず,ただキリストイエスを信じる信仰に よって義と認められる,ということを知ったからこそ,私たちもキリスト・イエス を信じたのです。」 ガラテヤ2:16


牧師:北澤正明