牧師 の書斎より その7『手当』
   
 

 ご存知の方も多いのですが,この私は,モーツアルトを聞かない日はないと いう変わった生態の人間です。そんな私は,音楽に詳しい方々からよく聞かれま す。「なぜ,そんなにモーツアルト,モーツアルトなのですか」「牧師をなさっ ているのならモーツアルトの前にバッハではないでしょうか。」「すばらしい音楽 は他にもいっぱいあるでしょう。ブラームスだってすごい,ワーグナーだってべー トーベンだって。」そのように言われるとき,私はいつも「本当にそうだ。同感だ !」と思うのです。が,しかし,本当にそう思いつつ,きょうもまた私は傍らにあ るモーツアルトのCDに手が伸びてしまうのです。何故か。きょうはそのこのこと について少し書いてみたいと思います。

 モーツアルト論には様々なものがあります。「切ないほどに美しい」「限り なく透明で軽くこの上なく優雅」「天使の声がする」などなど。 しかし,私が聴 き続ける理由は少し違うところにあるように思います。モーツアルトの音楽は(特 に後期の作品になればなるほど)私の心の奥(魂と言った方が適当であると思いま すが)にある「悲しみ」に温かく手を当ててくれる・・そのことを強く感じるので す。

 ここで言う悲しみは,使徒パウロが,御国に行って初めて「顔と顔を合わせ て見ることになります。」(Tコリント13:12)と語っているように,私たちのこの地上 での生活は,父なる神さまと顔と顔を向き合わせているわけではありません。そこ に私たちの魂の悲しみがあります。わかりやすく申しますと,父なる神さまへの寂 しさです。(ですから,この悲しみは,愛しみと書いた方がいいかもしれません)  また,私の中にはもう一つの悲しみがあります。それは少々難しい表現をすれば, 被造物の悲しみです。生きものとしての悲しみです。私たちのこの地上での生涯は, 永遠に続くものではありません。限りある生命体です。勿論,新しい「いのち」を 私たちキリスト者は約束されています。しかし,そこにはやはり悲しみがあるので はないでしょうか。新しいいのちに移らなければならない。それは,ちょうど住み 慣れた土地を離れなければならないときの悲しみに似ています。いつか,この大地 からも,そして,一緒に泣き,一緒に笑って生きてきた方々とも別れなければなら ない・・その,何とも言えない寂しい思いです。

 手当というのは,患部に手を当てて癒すことからきた言葉であると聞いたこ とがありますが,モーツアルトの音楽は,私にとって,正に,この手当です。この 音楽は,私のその心の奥にある悲しみという患部に,いつも,そっと手を触れてく れます。そのとき私は,神さまからの深い慰めを覚えるのです。

 「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」マタイ5:4


牧師:北澤正明